同じところをまわっている。
感じたものを、あれを、掴むために考えることが、とても、とても、大切で、それが自分の意味付けをしていたんだけども、それが、できないとなると、自分による、自分の意味付け・価値付けもできなくなってしまうという、なんとも言えない、いやな状態になる。それ以前に、やるべきことができていないという点において、意味も価値もへったくれも、何も無いわけだが。あれだなあ、と思う。自分に意味付け・価値付けできないから、自分は無意味な駄目な人間なんだと思っても、他人にとっては私に意味があろうが無かろうが、それどころか存在しようとしてなかろうと、まったく関係のないことであるから、卑下することもできない。卑下すれば、卑下するほどの価値・意味を持っているという表れになる。
静止が無意味と無価値を、正確に精確に表現する。本当に腹の底から、自分を否定するのであれば、静止しなければならない。
訳文が崩壊的なのはともかく、普通に、真面目に書いた文章の日本語がおかしいというのは大問題だなと今まだ引きずっている。母国語もできないとか、笑えない。でも笑えないのは本人だけ。文学部なのに日本語不自由とかーーーーwwwwwwwww
私、なんだろう。