いくら考えてみても考えているわたしは人間だし、という諦観

意味がないのはわかるんだけども、意味がないと感じることは難しい。
感じても、伝えようがない…というのか、どう伝えればいいのかわからない。犬を見て「あ、犬だ!」と指を指すのと同じような感覚で、無意味だと感じると「あ、無意味だ!」としか言えない。“無意味”という感覚に色々と説明を付けるのは難しい。無意味なんだもの。裏が、根っこが、厚みが、何も無いんだもん。
でも、説明が難しいのは“無意味”感だけじゃない。感覚自体が難しい………というか、できないかもしれない。まるっとそのままは無理だ。そりゃそーだ。
性質を取っ払った剥き出しの本質が存在するなら、それが一番、ここから剥がれた存在だと思う。
それと同時に、あれに一番近い存在だとも思う。というのも、それはあれ自体が本質剥き出しと考えられるから。逆に我々*1が性質と考えればあれも本質のみではないと言えるのだが*2、この全てを包括するあれそのものとして考えるとなると我々が性質とは考えにくいと思う。
……性質を無くすことはできないが、性質を剥がすことはできるかもしれない。しかしそれは根本的な解決にならない。対象となるものでなくその外部にあるものが行えることであり、なおかつ対象となるものそれ自身*3に対して行えることではないから。自ら行えないのなら意味がない。ああ、意味がなかったよ……。
意識じたいが性質、意識の働きが性質を生む。我々は限りなく0に近い本質に限りのない数の性質をペタペタと貼り付けた存在。本質はどこにあるんでしょうか。もしかして、なかったりして〜。

*1:ここにあるものすべて

*2:あれはここを包括しているから

*3:“動き”を持った状態、生きている状態(生命の有無ではない)