常識がないかもしれないけど、学はないけど、そんなのうっちゃるくらい大変なものがある。
確かに常識も学も超大切なんだけど、でも、それだって大変大切なものじゃんか。
証拠とか確証がないけど、でもそれって確かにあるし。どうやって“ある”って言うかがわからないんだけど、でもあるんだと思うというかあるし、土台を見直すことはすっごく大切じゃないですか。
思考して喜怒哀楽のある個人としての自分とか、人間という動物としての自分とか、ズルズル引きずりながら(むしろ引きずられながら)、絶対にどうにもならないとわかりながらもぐだぐだやるわけですけど。だれてすぐに休んじゃったりふてくされちゃったりもするんですけど。大体ここの一部分なんだから、自分も思考もその外のモノにはなれないんでしょうけど、でもでも考えるわけじゃないっすか。こんなこと実際私なんかが言えるようなことじゃないけど、無意味とかどうとかって、そんなに問題じゃないじゃん。無意味のどこが悪いか! 大体のもんに意味なんぞないんじゃないんすかー。学問じゃない思考は屑なんすか? 当てはまらなければ、考える価値もないんすか? 馬鹿がこんなこと言うのはみっともないかもしれないけど。