カラクリを動かす神かカラクリの中心に鎮座する獅子

性質を剥ぎ取ろうとする思考。
自分で自分を捌く感じ、おかしい感じ。モヤ。
自分で自分を捌くことも、あるべき行動*1と言えるのだろうか。自分で自分を捌くということ、あれの“動き”に似ている節がある。自我を掴むということにも似ている*2。対象がぼける、ぼやける。自分自身がぼやける。できないからこそ、捌こうとするのか? 自分で言ってて、何言ってるのかわからなくなってきた。
生き物と人間をべっこに考えるのは、そりゃおかしい。でも、一緒にならべると、それはそれでおかしい感じを受けるのはナゼだ。神と人間と獣。神視点から見ればどうということはない。獣視点からは…見られるのかわからない。その中間にある*3人間からの視点が問題。“思考”がひっかかる。
思考って中途半端なものだと感じる。完全性はなく、無意味さの上に意味を置く。思考が人間を人間たらしめる。肉を切るのには適切だが、心臓をえぐることはできない。私は心臓をえぐりたいのに。

視点が私だからそう感じるだけなのかもしれないが、“流れ”の中心にあるのは我々という存在なのではないか。神がいるとして、それが中心にあるようには感じられない。勿論、その神がどの神を指すのかによって変わってくるのだけど*4
我々が中心にあるといっても、それをどうすることもできないのであるから、意味はない。監視のない箱庭にいるようなもの。中心でないといってもいい。特に反論はない。なぜなら、中心にあると思う理由は“思考”にあるから。人間が思考しているから、中心にあるのだと考えるのであろう。つまり、意味付けである。


寝ぼけ眼で筆が滑ってないといいよね。

余談
思考*5できないものが獣だというなら、私は獣か。考えたいことを上手く考えられている気がしないんだよ…。何故“てごたえ”がないんだろう。

*1:異常の反対、正常の言い換え。適切な言葉が浮かばない。

*2:似ているというよか、同じことなのか。

*3:中間にあると言えるのかも微妙だろう。考え方によっては、人間だって獣と言っていいとも思う。

*4:同等と見なす神、あれ。あれを神と呼ぶのは嫌だが、一応。

*5:対象を深く追って、追い詰めて、掴んで……