10回以上噛んでから、飲み込む

方法序説から

感覚、自我

こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。*1

自我とか自分を認識するものは、感覚ではないのだろうか。考えることで、自分という意識を認識するとは思えない*2。意識がある、自分というもの*3を掴もうとすることは、それらという感覚を感じているということだと思う。
または、自我は感覚の集まりとは考えられないのだろうか。思考もまた一種の感覚。ただ、やっぱり種類は違うのだけども。
感覚は時にわたしたちを欺くとすると、自我を感じ取る感覚も欺くと言えるだろう。そう考えるとどうだろう*4。……ここまで書いて、書きたいことを忘れてしまった。思い出したら、続きを。

神のはなし

完全無欠の神。神が神でなくなることってできないのだろうか。できないなら完全じゃないし、できるとしたら、なった時点で神でなくなるけれども*5
神という一つの個体を考えるのがいけないのだろうか。神でない神。神と対等な我々。自我と神の話にちょっと繋がった。

*1:p.45-46

*2:思考は、意識はどのようなものか、と意識を向けることはできる。しかしそれがどのようなものなのかを掴むとき、それは考えているとは違うと思う。

*3:自我、精神、総称

*4:コギトにはあまり影響はないかもしれない。自我も感覚も欺いているとしても、それらの“動き”が存在している……ワン!

*5:なった時点から神に戻ることはできないと思う。神でないものになったんだから。もし神に戻れるとするなら、その神でないものも神になれる可能性があるということになる。ただ、なる・ならないという話には意思が関わっているように感じるから、ちょっといけないと思う。神に意思も人格もないと考えるから。