主観以外を証明してみせてよう

「神って全知全能であるんだから、全知全能でもなんでもない人間である個人が神と同等なんておかしいんじゃないのか」
「いやいや、おかしくないと思う。だって、世界の存在を根本から消し去るんだよ。ただそれ一つだけで、十分神と同等だと私は思うよ」
「神と同等ということは、神もこの世界の存在を根本から消し去ることができるということだよね。全知全能だからそりゃそうだろうけど。この世界の存在は二つの存在によって左右されるということなの?」
「そういうことになるけど、なんだかおかしいね。なにがおかしいんだろう」
自分は主観的な世界神は客観的な世界に存在しているように思えるからじゃないか」
「……」
「やっぱり神と同等というのがおかしいんじゃないのか。神は神だろう、おまえはおまえだろう」
「神というよりも、あれといった方がいいのかもしれない」
「神とあれは同じものを指すんじゃないのか」
「いや、なんというんだろう。この意味での神はあれの中の部品的なものを指してる」
「意味というのか、指している中身が定まっていない印象を受ける。おまえが言う神には二種類あるみたいだ。一つはあれの中に部品として存在する神」
「その神も全知全能であると考えても問題ない。ただし、あれから抜け出ることはできないし*1、あれに触れることもできない。そう言う意味合いで、わたし達と同じ立ち位置にいると言って良い」
「もう一つは、あれを指して言う神。それはあれ自体のこと、あれの言い換えだとね。じゃあ、今問題になってる「自我と同等の神」はこのどちらを指しているのか」
「また、で申し訳ないけど、どちらとも言えると思う」
「どちらとも言えると言っても、どちらも並行して話せることではないだろう。今はどちらで話していたんだ」
「今は、あれの言い換えとして。ただ、あれの言い換えとしても、あれ自身に呑まれるから……並行はできないかもしれないけど、切り替えはできると思う」
「あれ自身として考えていたけど、気がつけば部品となっていた、みたいな」
「そんな感じ」
「じゃあ、根底には部品説が流れていることになるのか」
「おそらく。あと、やっぱり神と同等というのはおかしくないかもしれない」
「ここのものであるという点において?」
「いや、そうじゃなくて、あれが母胎という考え方が関係していると思って。母胎とわたし達部品は同じもの…ならば、わたしと神も同じものでしょう」
「ここのものであるという点において、とは違うの、それは」
「違う。あなたの言うそれは、部品として、そこからの見方。わたしの言うそれは、本体(母胎)としての見方」
「違いがわかりにくい」
「部品としての見方は、その世界の主体とはなり得ない。でも、本体としての見方は主体となり得る」
「待て、おかしくないか。部品としても、自我を持つ限り主体となり得るだろう。だからこの話だって始まったんじゃないのか」
「ああ……世界の考え方をもう一度考え直さなきゃだめなのか。主観的な世界と客観的な世界」
「どちらもあるとは言えないのか」
「これは言えない。言った時点で、客観的な世界の存在を肯定することになる。そうすると、主観的な世界のみ、とはもう言えないから」
「ならば、客観的な世界を肯定すればいいのでは」
「そうすると、神と自我の同一性が揺らぐ」
「じゃあ、神と自我は同一性を持たないんじゃ」
「いや、そこは譲れない…」
「客観的な世界を肯定しても、それらの同一性は揺らがないとは考えられないのか」
「難しい。客観的な世界を肯定したとき、今まで呼んでいた神はそこに存在することになる。そこにある神と自我が同一であるとは言い難い」
「じゃあやっぱり、自我と神とは同一性を持たないんじゃないか」
「同一性を感じるのに」
「感覚だけじゃ、誰も分かってくれないよ。それに、主観的な世界と客観的な世界の定義が書いている内に曖昧になってきてる。今一度、考え直すべきだと思う。母胎と絡めて考えるべき。ただ、母胎と絡めると必然的に主観的な世界に傾くだろう。そこで完全に傾く前にやることは、客観的な世界と母胎との関連性について考えること。多分主観的な世界との繋がりの話になるだろうけどね」

*1:なんで私はあれに気付いたんだ?