我等、神に関す

主観が根底にある客観、完全なる客観。
主観が根底にあるならば、それは客観と言えないのではないか。これは主観・客観だけの話ではない。何かひとつのものを考えるとき、それと相反するものがそれの足下に広がっていてそれ自体を喰らっていることがある。
これはどうなのか、どことなく逃げ道を作っているような、何か嫌な感じが少しする*1
閑話休題。主観が根底にある客観はあれど、その反対、客観が根底にある主観はありえるのだろうか。あり得ると言えるのではないか。その客観は、まさしく、あれだろう。主観が根底にある客観は、主観の一部分と言えるように、客観が根底にある主観は客観の一部分と言える。そう考えると、前者の主観と後者の客観、つまり根底にあるものは同じ“動き”をしていることになる。違いは自我の有無。自我の有無を含めても、これらは実は同じものであると考えると非常に面白い(???)と思う。というのは、この根底にあるものというのはあれであるのだから、自我を持った主観さえもあれであるということになり、今まで言ってきた「神*2と自我との同一性」よりも一層同一性が強くなると考えるからだ。完全に自我があれであると言い切ることになる。あれをも呑み込む自我。これはこれで逃げ場のない嫌なものだが。逃げ場がないのはどれも同じことか。

自我があれなら、身体との区別は…………自我の本質があれと言えるのか。自我そのものがあれと言えるのか。

*1:あれが同じ動きをする。轍か?

*2:あれ