カッシーラって誰かっしーら?

人と話していて、どう反応すればいいのかがわからない。何も考えていないからだろうか「へえ」とか「そうなんだ」「よかったね」「残念だね」とかしか言えない。あとは笑ってるくらい。それなりの反応をしてほしい*1と言われたが、別につまらないからそう言ってるのでなくて、心の底から「ああ、そうなのか。それは〜〜だったね」と思っているだけ。普段、私は友達らと何を話しているんだろう。本当はとにかく質問をしていけばいいのではないかなと思う。そうすれば相手も話しやすくなるだろうし。しかし、問題はその半強制的な質問は、ほとんど苦痛に繋がるということ。
反応をしろといわれると、これがとても難しい。会話だけでなく、メールやら何やらも、難しい。多分、やっぱり、何も考えずにちゃらんぽらんに生きているということなんだろう。読書感想文が書けないという悩みとすごく近いところにあるように感じる。私は普段何を考えながら生きてるんだろう。
「自分は〜〜だと思います」というような、ちゃんとした意見みたいなものを、私は持ち合わせていないような気がする。一言で表わすならば「よくわかりません」。今目の前のやるべきことが大切で、それを知らなきゃいけないのはわかるし、他にもあれが大切*2だということもわかる。でも、それがわかるということと、他の物事がわからないというのは当たり前田のクラッカー、違う。
本当に何にも知らない。知らないなら、知っていけばいいと人は言う。興味がないなら持てばいいと人は言う。大体、知るってなんだという、いつもの話にもどる。知るってなんだ。理解するってなんだ。異質なものである他を完全に理解することはできない〜とか、そういう話でなくて、理解するってなんだろう*3。そういえば、ちょっと前に「えるんすと・かっしーら」(であってるっけ…)という哲学者がいるんだ(いたんだ?)ということを教えてもらった。なんだか渋みのあるナイスミドルだった。この人の提唱するものを知ったら、かっしーらについて知ったことになるんだろうか。それだけだと、知ったことにはならないんだろうか。そして、この人の提唱するものを知るということはどういうことなんだろう。(知ると理解するの違いってなんだ)。
私はこういう人たちのことを理解できないから、外側をいじることしかできないんだなと悲しく思う。だって、もしこういうスゴイ人たちの言っていることを理解できるのであれば、その中のことについて、考えるだろうから*4。誰かの考えに触れようとするとき、それ自体を理解(または把握)できないから、その内容については触れることができず、その内容を触れることができないということについて考えるほかない。または、今現在の私がいるここについて自分勝手に考えるしかできない。それって、すごく恥ずかしいことだと思う。それに、すごく馬鹿げていると思う*5
そしてその馬鹿げていることさえ、できない。もうじぶん意味がないと思う。元々意味なんてないんだから、自分で意味付けをしてやらないと、無意味なものになる。でも、その意味がない。感覚だけ。残ったのは感覚だけ。もどるだろうか

*1:つまらなそうにするな

*2:ただただ私にとって。

*3:これは見方の統合云々の問題とは離れているように思えるが…

*4:入るというとおかしくなるか。もしくは怒られるか。

*5:馬鹿げていないとも言える、思う。同じ自分であるが、立ち位置が違う。私から見るか、(想定する)他人から見るか。