辞書を引いていたらこんなん出てきた。写し間違えがなければ。
Qui dirait tout au premier venu n'aurait confiance de personne.
誰にでもかまわず全てを話すような者は誰の信頼も得られないだろう。
以前、そんな話をしたのを思い出した。
「人を選別して話をすることは悪いことではない。そうするべきだ」と「人を選別して話をせずに、誰にでも話せるようになりたい」という……… 最終的に話がどうなったかは覚えていない。
今思うと、何か食い違ってる部分があったように思う。選別っていったって、強さがある。選別を肯定するときの強さは、最低限のものなんだと思う。話しても大丈夫・話すべき、話してはいけない・話すべきではない。私の場合、そこに感情が乗っかるからいけないんじゃないか。話しても大丈夫か、話したいか。話したらいけないか、話したくないか。なんでそこに感情が乗るかは、懲りずに何度も何度も言っている「他人に自分を把握されるんじゃないか」という話に繋がる。
把握される・されない、の話はなんだかおかしいとも思う。把握されることを怖いとも思うし、(自分は薄っぺらいから)安易に把握されてしまうとも思う。しかし、逆に把握されることに安心感*1を覚えることもあるし、どう足掻いたって他は他を完全に知ることなんてないとも思う*2。
理解と把握の違いについての問題も出てくるのか。理解と把握はどう違うのか。理解は同じ目線での共有。把握は上から自分を見られる感じの共有。……だとすれば、先に書いた安心感を伴う把握は“理解”のことであると言って構わないように思う。
そして。理解、他人、外部の脳…………。自分本位。
話したくないと言ったら嘘になる。でも、じゃあ、誰に話すの?
本当に本当に本当に馬鹿な話なんだけど、あれの名前から、説明を全て話すとなると怖くて仕方ない。自分の中身が全てなくなる気がして怖い。人からしたら、私の自分なんて、なくなったところでどうでもいいものだ。しかし、私は自分がなくなるのは怖い。
そして、戻ってくる。あれに肯定を見出し、戻ってくる。引き上げられる。