黒ずんだ永続性にエルボー

人はいつか死ぬ。死んだらなくなる*1。そしたら、その人の思考もなくなるのだろうか。思考というか、その人の軸。
主体がなくなればそれに付随しているものもなくなるのは当たり前だろう。しかし、なんだかなくならないようにも思える。形(文章など)を残しているかどうかは問題ではない。その軸を知る人が存命かどうかも問題ではない。
ここにあったということ、その軸が存在していたということが問題。その軸そのものの中に入ることはできないだろうが、それを撫でることはできる。
否、それはもう軸とは言えないのではないか。思考と呼んだ方が適切だろうか。
思考と軸の違いも明確にしなければいけない*2
一度存在したものは、消えること(完全なる消滅)はないのではないか。それが例え目に見えず、誰にも知られることがなくとも。カタチ*3あるものとして蘇ることはあるのか。おそらくない。消滅した軸や思考は、それらの主体によってのみ蘇ることができると考えるから。それらをなぞったところで、それは主体が違うから別物となってしまう。また、とっかかりがないことも理由に挙げられる。カタチなく、ただ“存在”として存在するものを我々は掴むことはできないだろう。掴むどころか、気付くことさえできない。
そしてそれらは、ここに影響を与えることはない。

*1:語弊、色々補足が必要。

*2:別物として存在し、区別もつくが、互いに重なるところがある。

*3:形とは違う。