泥沼

「感覚を越えたものはあると思うのに、目の前のものしかなくても大丈夫かも、とも思うんだけど」
「またかよ」
「これってなんでなんだろう?」
「分離させてるからじゃないの」
「見方を?」
「そう。感覚を越えたものはあるという見方は思考。眼前のもののみでもいい、つまり感覚を越えたものはないという見方は自分自身にそれぞれ依存してる。二つは分離している」
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「待った。目の前のものしかなくてもいいという見方は、感覚を越えたものを否定する見方として考えてもいいの?」
「いいと思うけど。目の前のものっていうのは、今現在に存在しているものとか当たり前と言われるものだと思うけど、違う?」
「当たり前と言われるものもそう言っていいのかな」
「当たり前と言われるものって、例えば『犬はワンと鳴く』とか『昼と夜は交互にやってくる』とかね。要はさ、実際に自分を取り囲んでいる物事って考えればいいと思うよ」
「うーん」
「今現在に存在しているものとか当たり前と言われるもののみを信じたとき、軸とか可能性が含まれているとは考えにくいと思うんだよね」
「うーん。でもさ、思ったけどさ、軸や可能性も自分を取り囲んでいる物事って考えられるんじゃないのかなあ」
「それらも当たり前と言われるものってこと?」
「うん、広い意味でだけど」
「自分たちと同じ位置のものであって、特異なものじゃないということならわかるけど」
「うん、そういうこと」
「でも、最初に言ってた『目の前のもの』っていうのは感覚で捉えられるという意味が強かったんじゃないの? だったら、軸とか可能性は『目の前のもの』とは言えない。特異なものじゃないという話は微妙にずれてるんだと思うよ」
「離して考えるべき?」
「だろうね」
「あー、『目の前のもの』という言い方が悪かったかも。『五感で感じられるもの』の方がしっくりくるかも」
「それだと前話したことに戻っちゃうけど」
「前、受け止める存在があれば肯定できるって言ったね。戻るのかも」
「……じゃあ、最初の方の話に戻るよ」
「うん」
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「思考に依存する見方と自分自身に依存する見方、これらは統合できないと思う?」

つづく?