「『私が私じゃないとしたら、あなたはあなたと言い切れるのか』っていう歌詞の歌があるんだけどさ、どう思う?」
「内部から外部を否定している感じがするなと思う」
「意識(認識)する私が、意識されている私を否定する?」
「いや、違うとも言えないけど、思考が肉体を否定する感じかな」
「思考するという私と、肉体としての私かあ」
「多分両者が合わさって“私”なんだと思うんだけど、自分としては“思考する私”に重きを置きたいかなって」
「精神と肉体の対立、みたいな」
「うん。私が私じゃないと仮定したとき、精神は精神自身を否定できないと思うんだ」
「なんで?」
「私は私じゃないと言ったとき、言ってる私はなんなのってなるでしょ」
「想定している私ではないって考えられない?」
「想定している精神じゃないってこと? おかしくないかな」
「どうおかしい?」
「自分の精神はこういったものだって想定できるかなってこと」
「性格とかを精神に含めるなら、できるんじゃないか」
「いや、確かに性格も精神の一部と言えるけど、それ自体が精神というわけじゃないでしょう」
「じゃあ精神って何だろう」
「自分とか自我とかそういったものの総称。あと、それらの“動き”じゃないかな」
「外部にも出てくるよね、“動き”」
「出てくる」
「面白いね。内部と外部に共通点があるんだ」
「私の思考のクセじゃないといいんだけど」
「考えるのに、自分の思考も疑わなきゃならないのかあ」
「やろうと思えばなんでも都合よく考えちゃうからね、残念なことに」
「自分が自分を騙すのか。でかると は感覚が自分を欺くことがあるって言ってたね」
「……自分って感覚に近いのかも」
「流石にそれは微妙じゃない?」
「なんで?」
「感覚に近いものだとして、自分は何を感じるの?」
「喜怒哀楽、感情とか」
「なるほど。あ、でも五感とはちょっと違わない?」
「勿論違うさ。だから、近いもの」
「でも、近いものとも言えるのかな。感覚は受け取られるものだけど、自分はそれを受け取るものだよ」
「その自分は受け取られるものとも言えるんじゃないかなってこと」
「自分は受け取られるの?」
「自分自身に受け取られる」
「待って。精神は“動き”だってさっき言ったけど、それとの関係はどうなるの」
「うーーん」
「こ!」
「こんがらがってきた。自分を感じているものはなんなんだ、自分ってなんだ、今この私はなんなんだ」
「自分を感じているのは、それ自身、自分でいいとは思うよ」
「現れて受け取る、これが自分の“動き”なんだろうか」
「そうか。それぞれが個々に動いていると考えられる。精神が一つの“動き”を表わしているとしても、その“動き”は個々の様々な動きの集合体なんだと」
「いや、待て。精神の定義を明確にしなくちゃ……」