わたしのなかの、たぶー、たぶー

私、福耳です。
それは耳たぶ。
やっぱりシャワーだけじゃダメだよ、肩まで浸からんと。
それはバスタブ。
風呂上がりの一杯はおいしいよね。こう、指をかけてプシュッと!
それはプルタブ。
そういや、このキー使い方がイマイチわからないや。
それはTab。



肉体的なものに躊躇するのは、私が何かしら間違っているからなのか。
しかし、やっぱり、なんだか、これこそ、道具的な、最たるものなのではないのか……。肉体的な接触に、人格の入り込む余地はあるのか。そこに肉体があるだけで完結している節があるのではないか。
肉体は道具的である感じが強い。精神はその感じが薄い。でも精神だって、肉体同様道具であると考えられる。しかし違うのは、肉体は他人から直接利用されやすいのに対し、精神は直接は利用されないということ。触れる・触れないと言い換えてもいいものだろうか。


小説「転々」より。

肉体と精神を分けて考えるのが、そもそも間違いなのだ。
肉体に惹かれることも精神の顕れだし、精神的になっているからといって、肉体を忘れてしまうことはないのだから。


あまり、利用されるという考え方はよろしくないだろうなと思う。自分で言ってても、とても、とてつもなく、感じが悪い。私の矮小さというか、器の小ささというか、なんだか色んなダメな部分が垣間見えるようで、あまり口にしてはいけないことなんだろうと思う。
「お前に“利用されるほどの利用価値”ないじゃん」などとつっこまれればそれまでなんだけども。
肉体的なはなしを考えていくと、またどこかで繋がるんだろうなと思う。多分繋がる。

なんというか、やっぱり道具的っていうか、なんていうか。なんか不信感しか感じない。