まとまらなかった上に、的外れ

「良い精神を持っているだけでは十分ではなく、大切なのはそれを良く用いることだ」*1
精神は用いるものだとするならば、それを用いるのは一体何なのだろうか。その精神の持ち主であり、またその精神の持ち主の自我と言えるだろう。だが、その自我も精神の一部と言える。精神の一部である自我が、精神を用いるというのはおかしくはないだろうか。
用いられる性質のものが、同じ性質のものに用いられることには違和感を感じる。もし、これを肯定するのであれば、精神は互いに用いることができるということになり得るのではないだろうか。しかし、ここで根本的な疑問が生じる。精神とは何なのかと。
デカルトは、思考力と想像力と記憶力で構成されるものを精神と指している。しかし、その構成されている精神とは、一体何なのだろうか*2。それこそが自我か。否、そうだとするなら、自我を良く用いるという意味がおかしい。意思決定するのは自我であって、それ以外のものではないのではないか。もし、自我を用いるものがあるなら、またその自我を用いるものを用いるものが存在し、マトリョーシカのように用いるものと用いられるものが延々と出てくるだろう。

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デカルトのいう精神は、どこか能力*3に近い意味であるように感じる。それは何故か。「持っている」「用いる」という表現*4と、精神の構成物が全て能力であるという点に関わりがあるようだ。

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私は精神とは、感情や意思や自我や意識などの総称で、物質的な形を持たない、脳が生み出す“動き”であると考えている。そうであるから、良い精神や劣った精神という考え方を持たない。なぜなら精神は単なる総称であるし、優劣などを付けるとするならそれら単体に付けるべきなのではないかと思うからである*5 *6

*1:P.8

*2:変に考えすぎ? 思考力と想像力と記憶力の総称が、精神なのだろうか? 追記:総称というか、それらでした。

*3:または道具。それ自体が主体になるのではなく、使われる感じ。

*4:精神を「持つ」という表現のとき、その精神は「心」の意味合いを含むものが多いように思う。だが、デカルトの言う精神は「心」ではないように思った。

*5:大きな括りを精神とするなら、次に意識、自我がくる。そして自我が生み出すものとして、感情、思考、意思、理性などが続く。
優劣(または差異)を付けられるのは、その中の思考と意思と考える。だが、感情も起伏の激しさを考慮すればそれらに入ると考えられるかもしれない。

*6:少し強引な気もする。