無知に鞭

馬鹿が何を言っても仕方ないという、元も子もない感じ。
そして、もっと問題だなとおもうことが、人と一緒にいることですごく安んじていること。じゃあ今まではそうじゃなかったというのかというと、そうは言えないけど。二つの見方の統合をしなければいけないことを忘れ、感情に流され、寂しいと唸る。どうだ、この醜さは!
周りが私を救えないことはわかっている。しかし、私自身が救われない存在であることもわかっている。周りは私を救えないが、私も周りを救えないのである。我々は同類であるのだから。そして、自分自身も救えないのである。
自分も自分を救うことができず、何によっても救われない。救いというものがないのであれば、そもそもその反対の状況もないと考えることができる。人と一緒にいることで安んずることを肯定することができる。そう考えることもできるが、やはり何か違う。箱庭のようなものの中に詰め込まれている感覚、何かに繋がれて飼われているような感覚、不快感と不安感がある。これらの感覚は根こそぎ取り除くことはできない。何故なら、それらの感覚の原因の中に自分があるため。いや、自分自身さえも原因なのかもしれない。自分の存在がここの一部であるのだから。そう考えるのなら、変なことだ。原因が原因を苦しめていることになる。…とはいえ、原因と一言でまとめてもそれらには個体(種類)があるから、そこまではおかしいことではないのかもしれない。
他人との接触で安心するということ、人間の性質。
いつも同じことを言うしかない、情けなさ。私は人間だから、人間の性質を剥がすことができない。感情があり、欲があり、その他思考を邪魔し感覚を鈍らせるものを抱えずにはいられない。そして、それを言い訳にしてはいけない。
何かおかしい。生きるということによって、ここのものとして在り続ける*1。違う、他人との接触について…。他人との関わりの中で安んじること*2、それは唯一の慰めなのではないか。救いではない、慰め。しかし、自分にとっては、それはよろしくないものである。
ここのものである私はここのものでないものを掴むことはできない*3。ここのものである私は、ここのものであるものにしか頼ることができず、ここのものに頼ることで孤独でないと安心する。…しかし、本当に孤独ではないのか? 根本では孤独だが、生の保持の観点からすると、孤独でないと言えるだろう。そして、人間という生物・動物である以上、生の保持に重きを置くのは致し方ないこと……なのかもしれない。これは言い訳か。じゃあ人間ってなんなんだろうか。生まれて、生きて、死ぬ。生き物としての性質をまといながら、その性質を剥ぎ取ろうとする思考。すごく不思議な感じがする。自分の存在を否定しながら、存在しつづけようとする感じ。
人形劇の中にいる不安感。人形劇の中にいる不安感をもつ人形。同質と見なす安心感*4。同質である不安感。同質である不安感。同質である不安感。同質である不安感。救われない。

*1:死んでも同様だが。

*2:ここのものに流されることで安んじること

*3:掴んだ瞬間、いや感覚として捉えた瞬間に、それはここのものとなってしまう。

*4:個々は異質。