霞を喰らって生きてくれ

見方の統合。
外的見方、内的見方。外的見方を中心として内的見方を取り込むことができたなら、いいと思う。できることならば外的見方のみで生きられるのがいいんだろうとも思うけど、人間である以上それはできないと考える*1
外的見方を尊重するのには理由がある。あれを忘れないため、あれの存在を確認し続ける*2ため。内的見方は感情的なものを強く含むものであると考える。感情的なものはここによく馴染み、巻き込む。
そこに人が関わってきたらどうだろう。知り合いや友人やら、なんたら。
それらの人びとに関係する*3私は確実に、内的見方の中にある。むしろ外的見方でそれらの人びとと関係することはできないのでは……。それって、あれだとおもう。同じ仲間といることで安んじている云々………211。違うか? 違うと言えるか? 同じか?
自分が人間という性質をまとっていることを、どう受け止めるべきなのだろうか。その性質のもつ特徴を致し方ないことと受け入れるのか、致し方ないことであっても抗うべきなのか。あれに対する態度と同じである。あれに対しては抗うべきだと思う。しかし、性質についてはどうなのだろうか。性質を持っているそれ自身が、性質を否定する(はね除ける)ことは不可能であるように感じる。それは、自我を持つ自身が自我を捉えようとするのと同じ不可能の感覚。それを自覚し続けることが、妥当なのか*4。いや、それも何か違う。どう足掻いたって、性質は性質でしかないか。性質を剥ぎ取ろうとすることも、また違う種類の性質の動きであるだろう。じゃあ、どうするべきなのだろうか。
今こうして考えていることも、性質といえば性質である。性質なくして存在することなんてできない。同じ動きを見せるのは何でなんだろう。轍を踏んでいるの? 繋がりがあるからなの?

*1:しかし、外的見方を基盤にするということ、それは限りなくこれに近づけること。

*2:感覚をなくさない

*3:中に入るとも?

*4:妥当っていったって、口で言うのは簡単だけども…