げへぇ〜な

なんか本読みたいなと思ったが、弱い自分がその本に呑まれるのではないかと考えてしまった。本を読むのが嫌になったのは、これがはじまりだった。
進むかとおもったら、戻った。でもなあ。


ああ本当に自分が問題なんだなあ。掴んでいるものは不変なのに、掴んでいる私は移ろいやすいというのか。ここのものだからか、それとも私という個人がそういう性質なのか。…でも、本当に根本から私は移ろいやすいのかな。あれを離せない・放さないことは、不変なあれと同じとまではいかなくても不変な意味合いを持ちはしないのか。そこが問題なんじゃなくて、感覚が問題なんだ。意思やら何やらは持ち続けられるだろう、あれは確かだと考えているから。しかし問題なのは感覚で、感覚はナマモノのようにいつまでも鮮度を保ったまま在り続けることは難しい。いや違う。感覚は生き物なのだ。上手く飼い慣らして生かさねばならないものなのだ。感覚は死にやすい。感覚が生きたという記憶は残るから、あれを感じたそのときは覚えているけれど、その感覚は消え失せてしまう。感覚が消え失せるのは感覚が死んでしまうから。生かし続けることはできないのかもしれない。できる最善は仮死状態のまま生かすことか。

感覚が生き続けられないのは、そういう性質を持っているからなのだろうか。それとも、目の前のものに流されるからなのだろうか。生きるため、目の前のものに流される。感覚も生きるためにあるようなもの。
感覚は感情を揺さぶる。

見てみろ。こことは異質なものを掴むために、ここのものを上手く活用せねばならない。何かおかしくはないか。ここを超えるものを、ここ(のもの)が捉えられるというのだろうか。言えないのではないか。しかしだからといって、ここのものを放棄しても結果は同じである。ここを超えるということは大きな変化であり、おそらくその変化は生じることはないだろう。生じることのないという閉塞感の代わりに、変わらないという安定がここにはあるのだけど。変わらないという安定にあぐらをかき、ちょこちょこと動いて安心を得ようと、閉塞感を紛らわそうとしている。クズ。
だが、どうなのか、人間という性質を持つ私がそれを恐れるのは当たり前と言ってしまえば当たり前なのではないか。しかしだからといって、それを正当化してしまうのは駄目だ。絶対に駄目。死んでも駄目。
なぜ、変化が怖いのか。変化、ここを超えるということは、生死をも超え、自我も手放すことになるように思える。なぜなら、それらもここのものだから。ではそれら、ここのものを一切手放した私という存在は*1どうなってしまうのか。あれに直接呑み込まれるという感じがする。部品、破片が、本体に戻るというのか…………。または消えぬ消滅
くさい、臭い、宗教臭い。駄目だ、臭い。他人を意識する以前に、私がこれを強く嫌悪する。駄目だ。いけない、なにかいけない。何で駄目なんだろうか。神仏の存在を肯定したくないから? 違う、それらがいても問題はない。それらが本体のように感じるのが嫌なのか? それはあるかもしれない。だけど、それらが本体だとしても問題ではない。多面性・全肯定、“動き”だから。じゃあ、何がだめなのか。他人と関係なく、駄目。何が駄目なのか。この駄目という感覚も、掴めなくなると空虚なものだ。




私は他人に助けられるが、わたしのシコウは救われない*2
ならば、他人に介入される恐れも、呑み込まれる恐れもないはず。私は何を怖がってるんだ? 性質の私の弱さ? 幹を切り倒されても根っこは残るのに?

*1:存在さえ手放してしまうのだが、表現上の便宜のため

*2:私とわたしのシコウの分け隔て、感情、肉と骨。わたしの思考(シコウ)というとなんだか醜いが許してほしい。