天水桶に龍

腐った私が感じるあれは、腐っていない。
天水桶に龍、掃き溜めに鶴。いや、掃き溜めというよか肥溜めと言った方がピンとくるかも。とにかく腐敗しているなかにある、凜としたもの。
昨日の続き、器の話。あれを考えるとき、自分というものはそれを考えるためだけの道具になっているような気がする。大体あれを掴むということは掴む者に存在が必要で、その存在はここに身を置かねばならない。…が、そう言うと、あれを掴むために生まれてきたなんて言えそうだけど、そんなことはない。決してない。歯車に意味なんてないんだし、生まれ出る前は関係なく、生まれ出てあれを感じたところから始まる。なんだか掴みにくいというか、ずれやすい。
この身は一つの、唯一の手段。これがなければ思考はできず、しかしあるが為に決して掴めず。そう考えると、一体私は何してるんだという話になってしまうんだけど。
あれは多面的だから、どんなカタチにもなり得る。私が感じるあのカタチは、私のみの感覚であるから、他人が(少なくとも完全に)感じることはできないものである*1。“私の感じているあれ”の存在*2を作り上げているのは、私。作り上げる理由や意味や他人の意思は介入しないが……それを考えるということのために在るような感じ。“ため”というと意味として強すぎるし、少し意味合いもずれてしまうから、よろしくないが。なんというか、私自身には何にも意味がないというのが強い。生まれたことに意味はない、生きることに意味はない、自分自身の存在に意味はない*3、といったことよりももっと、酷な感じ。道具として使われる不快感、ただそれだけの無意味。
器が中身を壊そうとする図は、おかしいというか、気味が悪い。

*1:だから、逆に他人の感じているもの(あれとはいいにくいが)を感じることも不可能と言える

*2:ここの根拠あるものとしてという意味でなく、普遍性を超えたところの存在として。これをダミーと言うのか。

*3:私自身には何にも意味がないと同じ意味合いなんだけど、何か違う。私という個が問題なのだろうか。しかし、自分自身といったときにも、個は含まれている。何が違うのか。全くの無意味と、異質を主軸として(それに意味があるのかという問題もあるが)それをただ存在させるだけという無意味の違い…