カタチある正解なんぞ最初からないじゃん、じゃん、じゃん、じゃん、豆板醤

(人間は歯車である。他の歯車と噛み合いながら生きている。他の歯車とは他の人間であったり生物であったり、それ以外のもの、神仏や時間などの非物体も指す。歯車と歯車が噛み合い生み出されるものも、また歯車であり、その生み出された歯車がまた別の歯車と噛み合っていく。そうやって、ここは存在している。
要するに、ここに存在するものは全て歯車。)

性質の方がいいか。「我々はここを構成する性質である」。
ここのものが全て性質ならば、神仏ももれなく性質である。本質はあれだと考えるからだ。
本質であると考えるものが我々性質の外側に位置しているように感じることが、何だか面白い。薄膜のような。
とはいえ、逆も考えられる。しかしそれは性質の内側に存在するのではなく、性質の中、もしくは性質そのものと言える考え方だ。内側というとき、複数の性質が本質にくっついているイメージを指す。中というとき、それは一つの性質自身の中に本質があるというイメージを指し、性質そのものとはその名の通り性質が本質であるということだ。
性質が本質であるならば、それは性質ではなく本質自身と言えよう。我々は本質であると。本質のイメージは薄膜から肉塊へと変わる。それでもおかしくはない。それどころか、前述の考え方と繋がる部分が出てくるだけだ。
性質・本質である自分と、感情・感覚を受ける自分に隔たりを感じる。
性質・本質だという自分は所詮は机上の空論でしかなく、感覚を持ち生活を送る自分だけが実物なのだと言うしかないのだろうか。否、どちらも実物であると言えるだろう。しかし、性質や本質は確実に捉えることはできず、しかもそれらは違うカタチのものになり得る。そして、意味を持たない。感覚は強く自分に訴えかけ、物事に意味を含ませ、生きるために自分を動かす。自我は強い。そこから感覚が生まれ、思考が動いていく。しかし思考の誕生と共に、物事の多面性は我等の手の中をすり抜けていくようになる。


真逆の考え方が出てくるということ。
それは問題ではない。何故なら、物事*1は多面性*2を持ち合わせているからである。

*1:非物体含む

*2:仮死状態の可能性も含む。