感情に生きよと人は説く

よくできた人が、クズのような人を手元に置こうとする理由はなんだろうか。優越感、どうにかしてやるよという善意、恩を売るため、なんだろうか。わかることは、その人が望んでいるものを私は与えられないということ。すくなくとも、今は。
私がそれを与えられない理由に、「自分と他人」と分ける考え方をしていることを指摘された。そんなことを言われても私は困る。私は他人を思いやる気持ちが足りないし、他人に興味を持ちにくい。自分のことしかわからない。
頼ってもいいんですよと言ってくれるが、有り難いけど頼りにくい。その人の望むものを私は与えられないから。その理由を探ろうと話を聞く姿勢をとってくれても、話したくない。話したくないことなんて、みんなそれぞれ持ってるじゃないか。
感情と思考の話だって…。その人はよく思考できるから感情を重んじることができるんだろう。感情に溺れ、流され、堕ちていくとしても、その面だけの話で済むんだろう。または堕ちないんだろう。できている人間だから。だが、私は違う。ゴミクズのような人間は違う。だから簡単に感情に流されたっていいじゃないなんて言うな。感情がなくならないことなんてわかってるし、この問題は死ななきゃ解決しないってことだってわかってる*1。あれの存在を完全に忘れることの恐怖はわかるまい*2
種類の違うものがごっちゃになってる気がする。根本が同じと言えるのかなあ。どちらかがどちらかをたきつけてるのかなあ。どう捉えてもらっても、もういい。私の説明じゃわからないだろうし、私の説明も不十分だし、答えなんてないし。指さして笑えばいいんじゃないの。
私が嫌だと思うことと、それをやっていいかどうかって、あまり関係ないんだろうと思う。例えば、私は馬鹿にされるのはすごく嫌だけど、じゃあ私が嫌がるから馬鹿にしてはいけないと言えるのかというと、そんなことはないんだろうな、みたいな。それが嫌だと思うのは私だけの問題だから。明確な理由がないんだよね。わたしがいや、ってだけで。…嫌という感情は無駄に強いが、それは何の力も持たない。

*1:死んでも解決されずに呑み込まれてしまうが、個人の意識を無くすことで私自身からのこの問題からは解かれる。

*2:飼われている恐怖もなくなり、忘れることはいいことなのだろうか。いいことのはずない。