おれ、神。

神がいるかどうか。
いるとも、いないとも。しかし、いるとしても、いないとしても、その神とは別のあれがあると考える。
私はあまり、神がいるということをよろしく思っていない。神がいるということというよりも、その神が全てを担っているということが嫌で仕方なかった。だから、あまり神が云々という話もあまり好ましく思っていなかった。が、私が指すあれは、ほかの人の指す神と同じ意味合いを含んでいるのだから、私は同族嫌悪*1していたということなんだろうかとふっと思った。
いや、もちろん神とあれは違うものである。しかし、立ち位置が同じというか、その存在の意味合いのようなものが同じだ*2。あれの存在を認めると、私は神の存在を認めるのと同じことをすることになる。
大体、あれの存在を認めること自体が、いいことなのか悪いことなのかが、なんとも言い難いようにおもう。認めなければ、考えることはもうない。でも、その考えないということが良くないことのように思える*3。その代わり、あれの縛りからは解放される*4。認めれば認めたで、あれの存在から抜け出ることもできないし、それに触れることもできないし、息苦しさしか残らないという。
そして、やっぱり、あれと自我は関係している。それと同時に、神(と呼ばれるもの)も自我と関係していると思う。むしろ、自分と神は同一かもしれないんだってば! それくらい近いんだって! ねえってば!
あれについての考え方。奥行きも何もない、ただの丸をみているみたい。丸に何かしらの変化を見つけても、最初の状態に戻る。
りんごを手渡された上に「これはりんごです」と言い渡され、「さて、これは何でしょうか」と問われるような感じ。「りんご」という答え以外に見つからない状態。
答えを導き出すのに途中があるのに、最初に答えを知ってて、答えを覆すために途中を必要として、逆に答えを確実にさせていくような…………
確実になるあれ、確実になる自分。他人との境、自分との境。
なんで宗教の臭いが消えないんだろう。エセ宗教の臭いが消えないんだろう。

*1:私はあまりに幼稚だから、同族というとちょっと違うが。

*2:この場合、“動き”とは言えないように思う。

*3:良くないように思えるのは、その存在を否定しきれていないから。それから目をそらしているという欺瞞を感じるためだろう。たぶん。

*4:解放され、デラシネになるとしても、そこになにかの縛りが存在するように思えてならない。考え方の轍…?