砕けたチョコレートに思う

帰り際に、包装を無理矢理たたみ込んだアルフォートを渡された。渡したその人はにこやかだった。

以前こう言われた。「君の話はなんて言うかアットホームだよね*1」。今日、こんなことを言っていた。「(話が合わないひとは)アットホームな話題が多くてね。申し訳ないけど、黙ってくれって思うことがある」。私はこの人に何を話せばいいのかがわからなくなってしまった。
私は「アットホーム」な話題しか提供することができないだろう。しかもそれはとても僅かな量である。私は何を話せばいいのだろう。思想の話はしたくない、できない。私は私の“考え”しか説明できず、それをその人に話す勇気も根気も今はない。政治も経済もわからない。その人の話を聞いていてわかったことは、その人は物の客観的な側面の話をするということ。私もそのように話さなくてはいけないのかもしれない。そのためには、その話す対象をよく知らないといけない。よく知るまではちゃんと話せない。黙るしか、手がない。
何を話すか、話すべきかわからないまま、ほとんど黙っていた。その人はたくさんの話をしてくれた。それは私が黙っている分を埋めてくれたのだろうか。
「思い入れのあるもの、ある?」と聞かれ、考える。しかし何も浮かばなかった。思い入れのあるものを見せてくれ、その思いに含まれる人物の話を聞く。とても大切な人なのだろう、と思うのと同時に、思い出になる・記憶に残る*2ということはラベリングされることなのだろうかとも思った。私はその人の中で、ひとつのサンプルとなるのか。「こういう人がいた」と整理され、記憶の棚に陳列されるのか。そしてそれを他者に話すのだ、「こういうヤツがいたんだ」と。それはとても嫌なことのように思える。そしてとても自然なことで、私も誰もやっていることだとも。もしそれが嫌なのならば、私は全ての人間関係から離脱し、全ての人間との接触を断たなくてはならないだろう。サンプルとなること、自分に何一つ思い入れのあるものがないこと、少し泣きたくなった。
私は多分怖がっているのだ。その人の鋭い指摘を。たわいもないこととして話したことが、えぐられていくことを。私は、この人が、怖い。



電車待ちのプラットホームで包装を開くと、砕けたチョコの残骸が顔を出す。私はそれのひとかけらを口に入れて、噛み砕いた。

*1:別に悪い意味ではない、と付け足し?

*2:現在進行形