ジボ、幸せ。

自分の内側を表わすものは勿論のこと、過去にサークルのために描いたイラストも自分の投影なんだと感じた。
以前何にも考えずに描いた鳥が、寂しい状況に追い込まれていてた。しかも自分の嫌な部分を妙に表わしている。見ていて可哀相になって、今度はその鳥が幸せそうな絵を描いたら満足した。ちゃんとペンで清書してね、色塗ったんだよ。


絵って写真と同じで、その一瞬を写している(描いている)ものなのだろうか。小さい頃は描いた絵にはその絵の世界があると考えていた。だから何かが泣いている絵とか悲しんでいる絵を描くと、その対象はずっとその感情を持ち続けなければいけない、それは可哀相だと思っていた。今も絵の世界がある気はしている。絵がその世界の一瞬を映し出したものであるのか、その世界そのものなのかはわからないけど。いや、後者と考えているから今回幸せそうな絵を描いたのかも。そう考えるとその描かれたモノは動けなくて可哀相なのだろうかと心配してしまうが、案外動けるんじゃないだろうかなんて考えたりして(希望が強いんだけど)。動けるといっても本当に絵柄が変わってるとかじゃなくて、見えずとも動くみたいな……ね。あと、同じ対象が描かれた絵があるとドッペルゲンガーになるんじゃとも考えられる。でもそうじゃなくて、これは写真みたいに同一人物ってことで考えてる。……過去の切り離しみたいなものかな。とっかかった。
そういえば「木は動けないから可哀相だと人間は考えるけど、木は反対に考えているかもしれないよ。動かないと生きていけないんだから」と誰かが言っていた。テレビか書籍か忘れてしまった。バラエティか何かだったっけか。なるヘドと思ったよ。


もしこの文章が誰かに向けて放たれたものだとしても、きっと文章特有の完結という性質は無くなっていないだろう。それは、その“誰”というのがわからないから、向けられた本人にも性質が働いてしまうため。そしてもう一つ、完全に完結してこそ文章であるから*1。もしこの性質が嫌ならば話しなさい。口に出しなさい。口から出せば、一瞬だけどそれは生きる。すぐ死んじゃうんだけどね。それどころか生まれないこともあるか。もうダメじゃあないかー

*1:完結の意味に注意