無意味のなかの意味の現実味

なんとなく、人に伝えるために何かをまとめることや何かを書くことが悪いことのように感じる。人からの反応を期待することが卑しいことのように感じる。大体、考えていることなんて誰かに話す必要はないし、話したところで何も変わりはしない、自分が助かるわけでもない。誰かに伝えるという目的で、文章にまとめたりするのは本末転倒なことだと思った*1。でも、他人に伝えること、その反応を期待することは普通のことと言われてすごく安心した。そうか、私は期待してもいいのか。そう考えると少し頑張れる気がした。
しかし、話は一人にしかしていない。他の人に話す勇気がない。相談に乗ってくれた人にそのまま話してみるべきだったのだろうか。そう考えてみたところで、その人に話す気にはならないだろうとしか言えないんだけれど*2。なんか、全然良くない気がしてならない。頑張れるんかい。
自分の苦しい部分を壊すような他人の意見に触れて安心したのはいいが、他人に頼ったという時点で本当にそれでよかったとは言えないのではないか。本当はこれも言うべきことではなかったんだろう。苦しいだとか辛いだとかってのは個人的なものであるから、それを他人に言うべきではない。ひとりで黙っていればいいのだ。私の“考え”もそれと同様なのではないか。ずっとずっと黙っていればいいのに。話したいってのはワガママなんだ。戻った。

そして一番怖いのは、感情の巻き添えを食らって思考しなくなること。だから、一緒くたにしてはいけなかった。一本道でどう逃げる。進めず退けずでどうする。考えは無くしたくない。暇つぶしの道具にも処理の道具にもモルモットにもなりたくない。進みたい。でもなにもしたくない。止まった。止まりたくなかった。動くだろうか。

*1:考えることが主体で、他人に伝えることは本来はいらないもの。反応がほしいがためにまとめるのはおかしいのではないか

*2:自分のためにその人を弁護する。相談と“考え”を話すのは違うから…“考え”を話すにはちと怖い。でも、何でも知っているし頭もいい(だからこそ怖いのだけれど)。話もちゃんと聞いてくれるし、相談にものってくれる。人格に問題があるわけでもない。いい人です。