馬鹿にされるのは死ぬほど嫌だけど、仕方ないっちゃ仕方のないこと

荒い。考え方が荒い。どうすれば細かくなるのか。
言葉の選び方が荒いのか、指す対象の捉え方が荒いのか、私の思考力が足りないのか。否、全部か。

対象に根拠がないから荒いのだろうか。感情って、精神って、自我って、私って、この現在って、この場所って、存在って、偉大なテツガク者の皆様って、他人って、異質って、性質って、本質って…………! もっときめ細かく、もっと繊細に、もっとなめらかに、もっと平易に、もっと流暢に、語ることができるはずなのでは。
では、対象の根拠ってなんだ。ここの土台のことか。それが例え、根っこのない大樹のように不安定で不確実なことであっても、そこに私は在るのだから、それを理解していなければ、何も言えない*1のだと思う。それが他人の何かなんだろう。

わからないのであれば口にしてはいけない。前も前も前も、言った。私はアホだから、他人の言ってることを理解できていない。理解できていないということは、それについて何も言えないということ。それについて何も言えないということは、自分が考えていることについても何も言えないということに繋がるのではないだろうか。なぜなら、それらにはそれなりの根拠がある(ように思える)から。根拠を持つものは、強い。…軸の問題がからむ。軸がずれれば、重点も変わり、根拠の在り方も変わるだろう。

偉大な他人という根拠。今までのものを理解もせずに、自分の考えを勝手に言うことはいけない(意味がない)ことだと何度も聞いた。理解してから言えということ。私の言いたいことは、もう全部言い尽くされているだろうということ。それを踏まえた上で、語れということ。
なんか言っていること、わかる。そのとおりだと思う。私が言いたいことなんてクズでしかないし、偉大な他人を理解できないという点で、もうなんていうか、私に発言するケンリなんてないんだろう*2
ただ少し思うのことが、ここの根拠を超えてしまうものは、定まったカタチになりえない*3から、どれが正しいとかなんとかとは考えられないだろうということ。だとするなら、偉大な他人が言ったこともクズが言ったことも同等に意味のないことだと言える。…しかし、それは飽くまで個人的な意見であり、公的にはそうじゃないから、こことしては何を言っても無駄である。当たり前ですけど。



他人の言ってることが理解できないということは嘆かわしいこと。自分の言ってることしかわからないということは恥ずかしいこと。
本が読めない。外部からのものを受け付けず、自分の内にただ潜ること、それは、腐っている。自己完結の仕方が間違っている。死んでしまえ。

それは否定さえも自分の中に取り込む。それは私も中に収めて在り続ける。私が在るからそれが在り、それが在るから私が在るのか。片方の存在によって、片方の存在が在るのか。この問題は色んなモノがからむ。色んなモノはそれぞれ異質なものでありながら、同一の顔を持ち、ひとつの……。ぐちゃぐちゃに混ぜ込んだ感じがする。多様性、喧噪、融合、慌ただしさ、斉唱、分裂、対立……などなどなど*4

それはとてもやさしい。全部を肯定していく。私はこれにすくわれる*5。ただ、それは安定と肯定のかわりに、絶対の束縛を我々に課す。これの感覚は変だ。存在を感じ、そのうち溶ける。わからなくなるのとは違う。これは“動き”なのかもしれない。

*1:言ってはいけない、言っても相手にされない、言ってもカルイ

*2:「だろう」というのはもがきのあかし。どこかで自分を捨てきれない証拠。

*3:答えとも言い換えて良い

*4:喧噪と斉唱、これらは何か引っかかる。悪い意味合いではない。いい。なんかね。

*5:救われる…巣くわれる…