えぐるように、囁く

自我と自分についてうまく掴めていない。
一応卒論で書いたが、それはその時の感覚で書いただけで*1、完全に固定して断言できない。これはその対象が動いているから、というよりも、私の認識の問題のようだ。
…で、問題は自我の問題それではなく、固定して断言できないという点にある。何事も大体そんな感じで、そのときに自分が気にかけていないことは、パッと説明ができない。前に書いたものを読み返すか、もう一回時間かけてボソボソ言いながらやらないと、何も言えない*2。それってどうなんだろう。自分で言ったことにもかかわらず、それさえも理解できていないということなのではないだろうか。
感覚に頼りすぎている気もする。だから感覚がなくなると、パッとわからなくなってしまって何も言えないのではないか。大体その感覚だって、絶対的なものでないのだから、それに頼るのも危ない。所詮は性質の集まりである自分なのだから。それに、私の感覚は所詮内に働きかけるものだ。
思考と感覚。感覚が刺激となって思考しはじめる。感覚と思考の関係はいかなるものなのか。
先と矛盾してしまうが、感覚は大切なものであると思う。ただ、感覚は自分と密接にかかわっている。そこがあまりよろしくない。思考は自分と関わりがあるものの、そこから(特に感情)切り離すことが不可能ではない。その点でよろしいけど、思考は感覚よりも狭い範囲をうろつくことが多いように思える。「思考は想像を超えられない*3」と。感覚も同じように、想像を超えられないように思えるが、感覚はその超えた“理解しがたい”という感覚を生じさせる(または受け取る)ことができる。
思考はなにか足りないように感じる。思考のみだと何かが足りない。感覚はそれだけで、完結しているものであるように感じるが、それだけだと、流される。感覚が生じると思考がはじまる。
感覚と思考が合わさって、はじめて爪を立てることができる、のか。
感覚と思考の度合いがある。全く感覚がないと思考は空回りする。微弱な感覚と思考だと、考えやすい。そこから感覚が強まることも多い。感覚が強いと、溢れる*4
“言葉*5”に発破をかけられることも少なくない。きっかけは何でもいいんだろうか。

*1:だからといっていい加減なつもりは、ない。

*2:それでもダメなことだってたくさんある…

*3:想像できないものを考えられないという意味ではなく………書いてて違和感が。何か違うか。

*4:それぞれ、もっと細かく書かないと誤解が生じやすい。説明できることでも、説明することでもない気がする。とにかく、度合いがあるということだけは書いておく。そこにある細かい違いは、動いてるものだから掴めるかはわからない。最初の話題に戻ることだろう。

*5:それの持つ意味、その形など