救いたまえ、救われたまえ

一気に読み終えた。

 一作目「出版禁止 (新潮文庫)」よりも断然よかった。(一作目の記事は 目に見えるものだけが真実だとは限らない - ところがどっこい、暇だから無駄話を)

 読み終えて、不覚にも少し泣いてしまった。

 

出版禁止 死刑囚の歌

出版禁止 死刑囚の歌

 

 

 

ここからは推測。

望月辰郎の宗教観が気になる。

娘の今日香を追い詰めることにもなった考え方

私は娘に真実を告げることを禁じ、自らの運命を甘んじて受け入れよと言った。真実を訴えることで傷つく人がいるのならば、自分がその苦しみに耐えなければいけないと。そうしなければ、憎しみの連鎖は永遠に続くのだと。p.243 l.18 - p.244 l.1

人を傷つけるくらいならば自分が犠牲になる。これはキリスト教的っぽいなと。自己犠牲的というか……いや、全然宗教のことわからないのだけど。

エスキリストも人類の罪を背負って十字架に張り付けにされてるらしいし(そうだよね、多分……)。

 

そして娘の今日香の正義感。おそらく父親譲り。

「心配したんだよ。亜子ちゃんのこと。嘘つくなんて最低だよ」p.65 l.19

「お父さんにもお母さんにも噓ついて、ずる休みしたんだよね。だめだよ。そんなことしちゃ。ごめんなさいって、みんなにあやまりなさい。クラスのみんなにも、先生にも、お父さんお母さんにも、私にも……」p.66 l.5

 ここはどこか懺悔とか告白を思わせる。

キリスト教にも仏教にも懺悔はあるらしい。

でもこの押しの強さはキリスト教っぽいかななんて思ったり。

「~~するべし」みたいな押しの強さ。

勿論、今日香の性格も関係しているのだろうが。

(でも「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」のようなのもあるから、完全に西洋的なものとは言えないよね。)

また、姉弟を殺めた理由に出てくる「悪魔」。

被告「子供の声ではない。目に見えない者の声だ。とか悪魔とか、そのような類の者だと思う」

(略)

検察官「亘くんを殺害したのも、悪魔の指示なのか」

被告「その通りだ。悪魔に操られて子供を殺した」p.41 l.14 -p42 l.1

最初に望月は「鬼」とか「悪魔」と表現する。

その後検察が「悪魔」と絞って表現しているから、 それに合わせたとも言えるかもしれないが、西洋的な表現になっている。

 

被告「(略)補陀落渡海という行を知っているか」p.45 l.2

被告「修行僧が船に乗り、補陀落、すなわち極楽浄土を目指す。(略)いわゆる捨身業の一つだ」p.45 l.4

 これは完全に仏教。

 

ここまでダラダラ書いたけど、私が言いたいことは……

望月は娘が自殺してしまう前までは神を信じていた。

自分が理不尽な目に合っても、人を恨んだり傷つけてはいけない。

全ては神の御心のままに、と。

しかし娘が自殺してしまってから考え方が少し変化した。

キリスト教から仏教へと変化。

なあんて考えてみたのですな。

 

時間経ってしまったからこれ以上は思い浮かばないな……。

本も返してしまった。

 

後味が悪いとは言わないが、すっきりとはしていない。

重い。

望月の健やかに生きてほしいという願いが須美奈にとって希望となるかもしれないが、望月が罪を被り補陀落渡海を行うことはそれ以上に須美奈に辛いものを背負わせるよなあと。

望月のことは嫌いじゃないが、この人は自己中心的なんだと思う。

娘に無実の罪を受け入れろと押し付けたし、

娘を自殺させてしまったことに対しての自分への罪悪感を(娘と同様に)無実の罪を被るということによってやわらげようとしている。

須美奈を救ってあげたいという気持ちも健やかに生きてほしいという気持ちは本当だろうが、そこを利用しているというか……。

須美奈に健やかに生きてほしいならば、補陀落渡海は行うべきではなかった、殺人の罪を被るべきではなかった。

自分を罰したいという気持ちを優先すべきではなかったのではないか。

娘と同じ無実の罪を被りそして死ぬということが贖罪になることはないだろう。

望月が救われてはいけないと言いたいわけではない。

ただ須美奈を娘と重ねて幸せを願うのであれば、本人がそのことに気付くか気づかないかに限らず、須美奈に重荷を背負わせるべきではなかった。

私はそう思った。

 

 

ところで、須美奈って名前はちょっと不自然だが何か仕掛けがあるのだろうか?