「母胎」という仮名

母胎を考える胎児の図。
胎児がいるから母胎があるとは考えられないだろうか。考えられる。ただし、その場合は母胎(の存在)は完全なるものではなくなる。そのかわりに、胎児が母胎の完全性を引き継ぐ。完全性は引き継ぐが胎児そのものの性質が脆いため、胎児自体が母胎の他の性質を持つわけではない*1
母胎という名を付けて器とみなした時点で、それはそれでなくなる。それがそれでなくなるのと同時に、中身が流れ出るような感じを受ける。
母胎は外から内への働き、胎児は内から外への働き。どちらも同じ働き。どちらに“動き”が宿っていても問題はない、はず。正反対でありながら同じモノ。だが、二つが共生することはない。両方を行き来することも、まずないだろう。 否、母胎と胎児を同種とするなら。全く同じものとするなら。同じものと見なしたとき、母胎と胎児をまとめるものが出てこないだろうか。いや、母胎と胎児の区別ができないのだろうか。
なにかを見落としている気がする。母胎という仮名を付けた時点で、話している内容が逸れているか。“動き”の抜けた母胎は一体何だというのか。それはもう母胎とは言えないものではないのか。
母胎と胎児を並べることはある程度までは可能だが、ある程度を越えると完全に胎児化して目的に到達することができない。仮定としてなら可能だけれども*2。胎児化した母胎は器でしかなくなる。“動き”を入れる器。この“動き”こそが、問題。そして、この“動き”が  であり、母胎である。
あんまり母胎という名はよくないのかもしれない。示すにはとてもいいが、それ自体にはよろしくない。

*1:完全性は完全ではない。

*2:自分が胎児である以上、全ては仮定なんだけど。