はしれはしれはしれ

周りを、そうか、それでいいのかと思えるようになってきた。思えるようになってきたというと、なんだかあまり良い感じがしない。気付くと言った方がいいのだろうか。私にはよくわからないことだ。
私自身が問題であるようで、ああなんだかなあという気持ちになる。でも、そうだよねえ。対象を上手く伝えられないとか、他人にわかってもらえないとかっていうのは、対象自体の問題じゃあない。それを伝えようとしている私が悪い。全部を肯定して呑み込んでいく対象は、いくら否定されようが何されようが、ただ在り続けることができる。けど、それを考えている私はここのものだし、弱い人間だからすぐ凹むし、他人にも自分にも呑まれるし、対象のように肯定し続けていけない。これは悲しいことだ。自分というものにさえ呑み込まれるというのは、よろしくないどころのさわぎではない。その中の感情に呑み込まれるということは、もうなんていうか生き恥をさらしているようなもの、万死に値するようなもの。それを肯定しつつ否定し超えていかねばならないのにそれに救われたり、それを見習わなければならないって、なんかおかしくはないか。いや、それを見習わなければならないってのもおかしいのか。しかし、しかし、全てを肯定し呑み込むという“動き”、それはとてもいいと思う。すごく優しくて、同時にすごく攻撃的(暴力的)で、全てを自分に還していく感じ、とてつもなくいい。
他人に理解してもらう必要って本当にあるんだろうか? 宗教的だとかオカルトめいているというのは、他人に理解してもらうということを前提にしたときに、より色濃く問題になっているように思える*1。元々宗教やらオカルトやらに似ていようがいまいが、それは対象の存在を脅かすものではないのだから、気にする必要はないのではないか。気にしているのは、ここのものである私、それらに不快を感じる私である。
…だが、対象の存在の中にあるということが苦しいから他人に話し始めたのではなかったか。今はこのまま黙ればいいと思えたとしても、そのうちまた同じように苦しむのではないか。いや、苦しむかどうかはこの先わからないではないか。もし苦しむのであれば、その時また改めて話し始めればいい。では、やはり他人に話す必要はない? 少し方向が違うのではないか。それを超えるために考えねばならない、考えるには他人に話すことがキッカケになりうるかもしれない、そう思って話していた。苦しいから話す、というのと、超えるために話す、という目的があるようだ。そうか、そうか、そうか! 宗教やオカルトといった類のもの*2への不快感をそのままに他人に話すことは不可能だろうか。できることはできるだろうが、他人が受け付けてくれないだろう。まて、他人に受け付けてもらう必要はあるのか? 自分自身が折れる危険性を考えると必要あるだろう。肯定否定じゃなく、受け付けるという問題。あと、宗教らに感じる不快感はどうしてもぬぐいきれない。もしかしたら同族嫌悪のようなところがあるやもしれない。特に仏教
思考と感覚のみでいきたい。そこに感情や他の思惑*3を交えたくない。そういった性質は肉であり、思考と感覚が捉えようとするものは骨である。骨と肉が合わさり、ひとつのここがあるのだろう。しかし、私が掴みたいのは、余計と思える肉を削ぎ落とした、骨だ。

*1:だからといって自分だけのときも、それらの色が消えるわけではない。

*2:あんまり一緒くたにしてはいけないんだろうが…。

*3:個に対して付いてくる性質。外部のものも含む。